そろそろ本題〜少女マンガの繁栄と衰退と…復活…?Part 1
「今更少女マンガぁ?」
と、このブログのタイトルを読んで思う方は少なくないでしょう。(平成生まれならなおさら。)実際少女マンガは今流行らない。いや、もちろんヒット作はあるけど、「少女マンガ」という文化は今流行らないよね。むしろ、時代はアンチ少女マンガだと言えるかも。
こんな時代がやってくるなんて、昔の私なら想像もつかなかったでしょう。
「どうせ『昔は良かった』と言うんだろ、オバちゃん」とさっそくツッコマレそう。
うん。まあ、昔は良かったよ。でもこれは懐かしズムのブログではない。昔に戻したいワケでもない。(それに「昔は良かった」と言っても、昔だって大半の作品はウンコだったよ。そのウンコな作品は忘れられているだけで。)
このブログでは、少女マンガの歴史を振り返って、その現在を見つめて、その将来について想像して、「少女マンガの良さとはなんだろう」「少女マンガの可能性とはなんだろう」「少年マンガや大人向けのマンガでは出来なくて少女マンガにしか出来ないこととはなんだろう」「そもそも少女マンガってなんだろう」、そんなことを考えていただきたいと思う。
なので、「『ベルばら』のアンドレは…」とか「BANANA FISHで描かれるニューヨークは…」などと、特定のヒット作品をこのブログで詳しく取り上げることはほとんどない。あなたの大好きなあの作品の話も、あまり出て来ないでしょう。(大好きな作品ならあなたはすでに詳しいので私がここで取り上げてもあなたの知識は深まらないし視野も広がらない。)
じゃあ、このブログで具体的に何をどう見るのか。それを説明するのにまず長めの自己紹介が必要かと思う。
初めまして。レイチェル・マット・ソーンです。アメリカ国籍の日本永住者です。白人です。アラフィフです。ハゲです。ノンケ男性…に見せかけてのトランスジェンダー女性(レズビアン)です。ハロウィーンにかける情熱は異常です。文化人類学者です。戦前戦後の少女雑誌や付録をコレクションしてます。京都精華大学マンガ学部の准教授です。
私が初めて日本に来たのは1985年の秋。バブル景気が始まろうとしてる日本。最近だと日本のアニメやマンガに興味を持って日本に来る留学生は多いけれど、当時西洋から日本へやって来る留学生と言えば基本的に二通りのタイプが居た。経済絶好調の日本に憧れて日本のビジネスノウハウを学んで国に帰って金持ちになりたいタイプと、不思議な東洋に憧れて禅やら茶道やらを勉強したいタイプ。ところが私はどちらのタイプにも当てはまらなかった。
私はただ単に女の子を追いかけて日本に来ただけです。
しかも私が追いかけて来た女の子(アメリカ人)はまた別の女の子(日本人)を追いかけて日本に来ただけだ。それこそ誰かに少女マンガにしてほしいドラマチックな三角関係だったわ。私が追いかけて来た子は留学中にレズビアンとして目覚めて、途中で帰国する。そして不謹慎な動機で来た二十歳の私は日本に残る。
笑える話だけど、それが結果的に良かったんじゃないかなと思う。というのは、先ほど挙げた金持ちになりたいタイプや不思議な東洋に憧れるタイプは日本に対して大きな期待を抱いて留学して来た。(そしてそのほとんどは幻滅した。)私は(好きな女の子とくっつくこと以外)何の期待も先入観も無く日本へ来た。だからありのままの日本を受け入れることが出来たと思う。
そんな中で、私は日本のマンガに出会った。
最初はバカにしてたよ?「いい年したオッサンが電車の中でエロマンガなんか読んでなさけないなぁ」と日本人の友人にボソッと言ったら、「いや、日本のマンガは奥が深いよ」と言われ、手塚治虫の『火の鳥』や白土三平の『カムイ伝』など、古典と言われるマンガをその年上の友人に紹介してもらった。それらの作品には感心はしたけれど、人生を変えるほどの衝撃を私に与えた作品は、同い年の女の子に紹介してもらったものだ。
「これ、ぜひ読んでほしい」と言って、真剣な眼差しで、まるでファベルジェの卵を渡すかのように、私に2冊の単行本を渡した。赤い表紙の「萩尾望都作品集」の11巻と12巻。『トーマの心臓』。
『トーマの心臓』を読んで、私は号泣した。ボロボロになった。そしてマンガ読んで号泣する自分に驚いた。
「マンガで泣くなんて…そんなの有り?」
日本人からすれば、とりわけ日本人女性からすれば、マンガで泣くのはごく当たり前のことだけれど、少なくとも私が読み育ったスーパーヒーロー系のアメコミを読んで「泣く」というのは「無し」だった。ありえないことだった。そもそも作る側はそんな可能性を考えてもみないでしょう。(今のアメコミはちょっと違うのですが。)
それまで私が読んだ日本マンガ、たとえば『火の鳥』で、うるっとなる場面はあったけれども、ここまでボロボロになることはなかった。「動揺」としか言いようのない反応だった。
どうして私は「動揺」してしまったのか。
当時の私は冷静に考えることが出来なくて、「この作品が凄すぎるから動揺したんだ、号泣したんだ」と単純に理解した。しかしどうだろう。もちろん、『トーマの心臓』を名作だと考える一般読者も評論家もたくさんいる。しかし『トーマの心臓』は何かの賞を受賞したわけではない。(萩尾先生の同じ時期の作品である『ポーの一族』と『11人いる!』の方は1975年度小学館漫画賞を受賞してる。)そして『トーマ』は池田理代子の『ベルサイユのばら』のような爆発的なヒット作でもなかった。(やはり『ポーの一族』の方が売れたらしい。)むしろ『トーマ』は何ヶ月も打ち切りになりそうになったと言う。
以前、私が担当してた「マンガ史概論」という授業で毎年学生に『トーマ』を読ませていたけど、感動するのは受講者の全体の1〜2割。他の学生の感想と言えば、「よく分からない」、「難し過ぎる」、「なんでトーマがいきなり自殺するのか意味分かんない」、「第一、誰が主人公なのか分かりません」などと、こんな具合である。(「こいつ今ネタバレしやがった!」と思ったあなた、ご安心下さい。トーマが自殺するのは2ページ目なので、ネタバレのうちに入りません。)
私が威張る学者なら「そんな読者は頭悪すぎてこの作品の良さが分からないだけだ!」と言うかもしれないが、残念ながらそんな断言をするほどの自信はありません。多くの読者が私の大好きな『トーマの心臓』を読んで感動しないのは事実であって、彼らが「間違っている」と私が主張する根拠は見当たらない。
他の少女マンガファンが「名作だ!」と絶賛する作品の中に、私が別に感動しないものもある。評論家やコアな少女マンガファンが「読むに値しない駄作だ」と貶す作品の中、私が感銘を受けたものもある。
それこそ少女マンガの醍醐味である!というのは、このブログの大きなポイントの一つだ。少女マンガの特徴の一つは、作品の内容や表現からして、一人一人の読者がその作品(というよりそれを描いた作者)に共鳴出来るかどうかが、その読者にとっての価値を決める。そして感動するかどうかは、その読者が作品を読む時点でおかれている状況やそれまでの経験によって決まる。
つまり22歳の私も、『トーマの心臓』に共鳴しやすい心境だったから共鳴して号泣した。
しかし当時の私はそんな難しいことを考えてなかった。「すごい!すごい!これは文学だ!」と、単純に思っただけだ。それからというもの、とにかくいろんな女性のおすすめを聞いて、少女マンガを読みまくった。竹宮惠子の『風と木の詩』。大島弓子の数々の短編。山岸凉子の『日出る処の天子』。岡田あ〜みんの『お父さんは心配性』。清水玲子のジャック&エレナシリーズ。一条ゆかりの『有閑倶楽部』。紡木たくの『ホットロード』。玖保キリコの『シニカル・ヒステリー・アワー』。鈴木由美子の『白鳥麗子でございます!』。
はい。無差別でした。好き嫌い無しにとにかく勧められたものを全部読んでみた。そして強く思った。
「英語圏の人々に日本の少女マンガを紹介したい!」
<つづく>
©️2018 Rachel Matt Thorn