昭和30年代・手塚の強敵たち〜誰が評価する?
土曜日は京都国際マンガミュージアムの研究閲覧室で昭和30年代の『りぼん』と『少女ブック』を見ていて、改めて色んなことに気づいたんだよね。
そのうちの一つは、手塚治虫が雑誌に載っているからと言って、手塚が必ずしもその号の一番優れたマンガを描いているとは限らないという事。逆に「こんなに上手いのにどうして忘れられているんだろう?」というマンガ家が散見される事。
(みなさんはきっと私の「手塚治虫は神様ではなかった」論を聞き飽きているので、ここで手塚先生のあら探しはしない。)
今回は、時代の陰に埋もれてしまったマンガ家の話をしたいと思う。
まずは1959年3月号の『りぼん』に掲載されている二つの作品を比べてみるね。
最初に目に入ったのは手塚先生の『あけぼのさん』というバレエマンガ。
カラーの扉絵が面白くて綺麗だね。
さて、中身の方は…
ふむふむ。この時代の手塚先生のマンガはこんなもんでしょうね。右側はこの時代にありがちな、文字だらけのごちゃごちゃした画面だけど、左側はもうちょっと面白い。
でも、せっかくの大ゴマの使い方は「?」だよね。
左下は殿様のちょんまげ?いや、よく見ると街灯。
主人公の後ろの煙は戦前のマンガの表現そのままですね。
『のらくろ』によく出てくる。
あけぼのちゃん、まさかここまで膝をついて歩いたのか!?
五体投地?!スポ根!?
などのつっこみはさておき、次に目にとまった作品には思わず「お!」と声を出してしまった。
鈴木光明先生の『もも子探偵長』。
そういえば、以前復刊版をネットで見かけたことがあるけど、こんなに古い作品だったんだね。
というか、私の鈴木光明先生のイメージは「80年代に時代遅れの絵で少女マンガの描き方の本を出した人」でしかなかった。(←ひどい。)
それにしても、この扉絵は(当時の水準だと)斬新で綺麗。
カケアミが綺麗。
線が綺麗。
デフォルメがキュート。
ふーむ。
ページをめくっているうちに…
さっきの手塚先生の作品よりうまいじゃん。
ここで断っておくけど、この日はあまりじっくり読む時間がなかったので、今回の私の評価は基本的に「絵」と「画面の使い方」に対するもので、物語の評価ではないです。あしからず。
それにしても鈴木先生、
線が綺麗。
見せ方がうまい。
いちいち可愛い。
後で調べたら、この時の鈴木先生は23歳だった。
(手塚先生は30歳だった。)
鈴木先生の生原稿を見たくなるよね。
私は、家に帰ってさっそく復刊版を注文しました。
分厚い!
私は読むのが遅いからまだ少ししか読んでないけど、この時代の水準だとかなりクオリティが高いと思う。
まあ、復刊ドットコムで復刊を実現出来たレベルだから、「忘れられた」わけではないけど、もっと評価されてもいいのにと思ってしまうよね。
しかし、次に紹介するお二方に比べて鈴木先生の扱われ方は、まだマシ。
この日に見た作品の中で単純にマンガとしてうまいと思ったのは神崎あきら先生の『みどりの大平原』(川内康範・原作)と西奈貴美子先生の『母のひみつ』(杜山悠・案)2作品。
まずは『みどりの大平原』。
残念ながら扉絵とあらすじのカットしか撮らなかったんだよね。
もっと撮ればよかった!
だけど、これだけでも画力と構成力がわかります。
ウマをウマく描けるマンガ家は少ない。
だいたい変なことになる。
この馬もツッコミどころがないわけではない。
前足は後ろ足と比べてえらく小さいとか。
暴れ過ぎて一本の足しか地面に触れてないとか。
主人公のお尻の位置は左に寄り過ぎて落ちそうになっているところとか。
が、それなりに説得力と迫力のある絵になっていると思う。
あらすじのカットも、3人の顔しか描いていないけどそれぞれの表情の描き分けが素晴らしい。
そしてやはり線が綺麗。
(私は基本的に綺麗な絵が好きだから、「絵よりストーリーだろう!」という人はご勘弁ください。)
『母のひみつ』も扉絵とあらすじしか撮っていない上、扉絵がピンボケしてしまってたので、ネットで別の号の付録の表紙を見つけたので、そちらを載せてみますね。
やっぱり可愛いね。
お母さんの表情もうまく描けている。
だけど、検索しても「神崎あきら」も「西奈貴美子」もなかなか出て来ない。
正確に言うと、西奈先生はそれなりの数のマンガを描いているにもかかわらず西奈先生についての文章はどこにも見当たらない。
神崎先生の方はどうやら2、3作ぐらいしか描いていないよう。
本当にうまいのに、なぜだろう??
などなどと、つらつら考えているうち、思った。
「手塚先生を含めて、このマンガ家たちは当時どう評価されていたんだろう」と。
いや、考えてみれば、当時の状況は今と全く違って、
そもそも「評価」と言えるような評価はあったのか?
言うまでもないがこの時代には「マンガ評論家」なんて存在しない。
マンガの批評ももちろんない。
目次を見てください。
『少女ブック』にはマンガ家の名前が載っているけど、
『りぼん』の方は目次に名前すら載っていない。
当時の読者は小学生。
(この時代の中学生は原則としてマンガを読まない。ただし貸本マンガ本は別。そのうち貸本マンガについて書こう。)
さて、読者が作者の名前を見るのだろうか?
「私は鈴木先生より手塚先生のマンガの方が好きだわ」というような会話があったと思えない。
子供の評価は、作品そのものが「好き・嫌い・どっちでもいい」ぐらいしかないよ。
(それは今でもそうだけど。)
単行本というものが、まだほとんど存在しない時代でもあるから、単行本の売れ行きで人気を測ることもできない。
あるのは、当時の編集者たちの評価だ。
そして当時の編集者たちはほぼ全員男性。
いつから、誰によって、「手塚治虫は神様だ、他のマンガ家とは格が違う」と言われ始めたんだろう。
少なくとも言えるのは、団塊の世代の評論家たち(つまりこの時代の小学生たち、全員男性)が評価したのは自分たちの思春期の頃に少年誌で活躍したマンガ家達。
その評価されたマンガ家たちもまた全員男性だった。(ただし、故・米沢嘉博さんが少女マンガとその作家たちを非常にまじめに研究し評価なさったことを指摘しなければいけない。)
男性の評論家がよくピックアップするこの時代の少女マンガといえば、横山光輝先生やちばてつや先生の作品だよね。
ちば先生は本当に素晴らしい少女マンガを描いていたけど、横山先生の少女マンガは果たしてそんなに素晴らしいか。
私はそうは思わない。
横山先生より上手いマンガ家も同じ少女誌で活躍していたのに、その人達は評価されていない。
なにが言いたいかというと、私たちが「史実」として受け継いでいる「マンガ史の常識」は男性中心の偏見から生まれたもので、当時の状況をそのまま反映しているものではない。
当時の編集者たちの話を聞けばより正確なイメージをつかむことができるかもしれないけど、その編集者たちは当時でも少女マンガを見下していたり、そのあとの展開の影響で当時の記憶が歪曲されていたりするんじゃないかな。
それより、私は当時の読者の記憶を探りたいと思う。
彼女たちは今頃60代前半のはず。
今度マンガミュージアムに行く時、8人ぐらいのその年齢のおばちゃんを連れて一緒に雑誌を見てみたいね。
ふいー、今回はこれでお終い。
次回は、なんであらすじばかりを撮ったか説明しようかな。
今日のより軽い話だよ。